Edvard Munch の有名な作品に《叫び》がありますが、これにまつわる興味深いお話をご紹介します。
《叫び》テンペラ厚紙1910年制作
あの有名な《叫び》という絵は同じ題名と構図で複数枚あることをご存知でしょうか。
それも1点、2点ではなくて確実に分かっているものだけでも5点もあります。
ムンクは油彩技法の1点の他に、パステルで2点、リトグラフとテンペラで各1点と5つの《叫び》を制作していたのです。
本稿は画家ムンクの生い立ちと《叫び》という作品について調べてみました。
《叫び》は複数枚ある?
《叫び》はノルウェーの画家ムンクの代表的な作品ですが、ムンクはこのテーマを題名も構図も変えずに、異なった絵画技法で複数枚制作しています。
確認されている《叫び》の内で最初に制作されたのは、ムンクが30歳の時に仕上げた油彩技法とパステル技法の各1点の《叫び》です。
更に32歳の時のリトグラフの1点とパステル技法の1点、最後は1910年に制作したテンペラ技法の1点になります。
しかしまだ他に確認されていない《叫び》があるかも知れません。
同じ題名と同じ構図で複数枚制作したのは、ムンクがそれだけこのテーマにこだわりを持っていたことと、この絵画の評価がすこぶる良かったことが考えられます。
更にムンク自身がずば抜けて手先の器用な人であったと思われます。実はムンクは画家であると同時に版画家としての技能も持ち合わせていました。
ではこの異なる絵画技法について解説します。
1800年代の絵画技法
油彩技法が確立したのは15世紀頃と言われていますが、1800年代の絵画の表現技法は他にも様々なものがありました。
そのうちムンクが《叫び》の制作に使用したのは以下の絵画技法です。
まず油彩技法とは油絵具を用いる制作技法のことです。油彩画、油画、油絵と呼ばれます。1893年に制作されたこの油彩の《叫び》がムンクの描いた《叫び》の中で世界的に有名な作品として知られています。
《叫び》1893年制作 油彩
次にテンペラ技法とは卵黄やカゼインなどを顔料と練り合わせた不透明な絵の具。これを使用した絵画技法のことで、1910年の下の作品になります。
《叫び》1910年制作 テンペラ厚紙
パステル技法は顔料を乾燥させ粉末にして粘着剤で固めた画材で、これを用いた絵画技法を言います。絵画以外にデザイン、デッサンで用いられることも多い画材です。
《叫び》1893年制作 パステル
リトグラフ技法は版画の一種で、平版画にあたり、描いたものをそのまま紙に刷ることができるほか多色刷りも可能です。 制作は「描画」「製版」「刷り」の3つの工程による絵画技法になります。
《叫び》1895年制作 リトグラフ
ムンクの生い立ち
次にムンクの生い立ちをざっと解説して参ります。これにより《叫び》のテーマを理解するヒントが得られると思います。
ムンクは1863年ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれました。
ムンクが5歳の時に母が結核で病死します。
母の死後、父は狂信的にキリスト教にのめり込み、異常なほどの厳格さでムンクを育てます。
ムンクが15歳になると今度は姉のソフィーエが結核で亡くなります。
多感な子供時代に母と、更に姉を失ったことはムンクの人生観、特に「死ということ」について大きな影響を与えたものと思われます。
ムンクは生涯、亡くなった姉をモチーフとした「病める子」という作品を繰り返し描き続けています。
《病める子》1896年制作
ムンクは17歳の時に父を説き伏せて王立絵画学校に入学しますが、その時の日記に「自分の運命は画家になることだ」という思いを記しており、この時既に画家を目指していたようです。
20歳の時には、親類の画家フリッツ・タウロウが主催する野外アカデミーに参加して制作や討論に加わるなどして着々と才能を磨き、展覧会の出品も始めています。
《 Morning(ベッドの端に腰掛ける少女)》を官立芸術展に出品したのはこの翌年1884年の秋です。
ただこの時の作品に対する評価は散々だったようです。
ムンクはその後、ムンクの画才に気付いていた親類の画家タウロウの援助もありパリで勉強を続けます。
そして26歳からの3年間はノルウェー政府の奨学金でパリに留学します。
このフランス滞在中に、印象派、ナビ派など多くの最先端の芸術に触れ、絵画技法を学び29歳でノルウェーに帰国します。
その後1892年12月からムンクはベルリンに住み、特に北欧の芸術家らと親交を深めています。
1896年にはまたパリに戻るなど活発に活動しており、このあたりに代表的な多くの作品を制作しています。それはムンクが30歳代の時です。
ムンクはその後絵画では名声を博していきましたが、私生活は荒れ、アルコールに依存するようになり酒場で喧嘩をしたり、次第に精神を病んでいきます。
当時交際していた上流階級の富豪の娘、トゥラ・ラーセンとのトラブルでピストルが暴発し指に怪我をするともはや限界を悟り、自ら精神病院での療養を開始しました。
ムンクが45歳の頃の話です。しかしこの時期王立政府から勲章を授与されるなど、ムンクの作品には秀逸なものがあリました。
ムンクは1909年に精神的にも健康と落ち着きを取り戻して退院するとノルウェーに戻りますが、皮肉なものでムンクのそれ以降の作品は精彩を欠き評価は芳しくありませんでした。
しかしムンクはその後も勲章を授与されるなど画家としての活動を続けていきますが、ドイツにナチズムが台頭するとムンクの作品は退廃芸術とされ冷遇されます。
その後親ナチスの傀儡政権下のノルウェーで1944年1月に80歳で気管支炎により死亡しました。
あとがき
ムンクの《叫び》に描かれているフィヨルドというのはノルウェーの南東にある湾の名前です。
「オスロ・フィヨルド」と言われ17kmの長さの狭い海域で、地質学上のフィヨルドとは違います。
また《叫び》とはムンク自身が叫んでいたわけではなくて、叫びを聴いていたのでした。
「太陽が沈みかけていた時に橋を歩いていたら突然不安を感じて、そこに立ち尽くしたまま震えていたのでありその時に自然を貫く果てしない叫びを聴いたのだ」と、
自身の日記で書いています。
ムンクの辿った人生を知ることで《叫び》という作品を理解するヒントが得られましたら幸いです。